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神戸港が開港してから、海外から様々なものが輸入され、多くの文化が根付いてきました。
このページでは、コンテナに積み込まれたキーワードがどんな風に神戸にやってきて育っていったのかをご紹介します。

コンテナをクリックすると、それぞれにまつわる歴史をご覧いただけます。

SOCCER(サッカー)その他の歴史を見る

日本サッカー黎明期れいめいき

神戸一中サッカー部(神戸市文書館 提供)

日本で公式にサッカーの試合が行われたのはインターポートマッチ(港対抗戦)でした。「KR&AC(神戸レガッタアンドアスレチッククラブ)対YC&AC(横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ)」の試合で、2対1で神戸が勝ったと記録されています。
また、1896年(明治29年)、神戸尋常中学校(現、神戸高校)に蹴鞠会、1899年(明治32年)に御影師範学校に「ア式蹴球部」(アソシエーション・フットボール=サッカーのこと)ができたのは、全国的にかなり早い段階でのクラブ活動といえるでしょう。

ワールドカップ開催

日本におけるサッカーの夜明けから120年、世界的なサッカーの祭典FIFAワールドカップが日韓共同で開催。アジアで初めての開催でした。神戸はウイングスタジアム(現ノエビアスタジアム)が試合会場の一つとして、世界のトップアスリートの熱戦が繰り広げられました。

神戸のサッカーチーム

ヴィッセル神戸は阪神・淡路大震災の起きた1995年(平成7年)に創設。震災の影響で苦難の船出となりながらも、J2、J1と順調に勝ち進み、いまでは人気チームのひとつに。船乗りをイメージさせる帽子をかぶった牛のキャラクターもお馴染みになりました。
また、2001年(平成13年)創部のINAC神戸レオネッサは、2011FIFA女子ワールドカップの日本代表「なでしこジャパン」で一躍有名に。いまも日本代表に多くの選手を送り込む強豪チームです。

BEEF(神戸牛)その他の歴史を見る

神戸牛のはじまり

神戸牛(神戸肉流通推進協議会 提供)

「神戸牛」がなぜ世界的にも有名なビーフになったのか。それは開港間もない神戸の港でのことでした。
これまで日本には牛肉を食べる習慣はなかったので、駐在する外国人は牛肉の調達に困り、農業用の「但馬牛(たじまうし)」を用意することに。ところが、いざ食べてみると丹精込めて育てられた牛の品質にびっくりしたのだそうです。その後、神戸に入港する船に牛肉を納めるようになり「神戸牛」と呼ばれるようになりました。
当時、兵庫県知事に就任した伊藤博文も海外経験から牛肉が好物だったそうで、肉食を奨励したといわれています。

大切に守られてきた但馬牛

いまも昔も神戸牛の素牛(もとうし)は但馬牛。但馬牛のなかでも上質なものが神戸牛と呼ばれています。
「但馬牛、骨細く宍かたく、皮うすく腰背まろし、角つめことにかたく、はなの孔ひろし、逸物おほし」と古書にも残っているように、昔から但馬牛の評価は高かったとみられます。(1310年「国牛十図」(延慶3年)河東牧童著)
そんな但馬牛は兵庫県の純血種。ほかの牛の遺伝子を入れることなく、但馬固有の種を守ってきました。

神戸肉のブロンズ像
(神戸肉流通推進協議会 提供)

神戸ビーフのブランドを守れ!

牛肉の消費が増えてきた昭和50年代、但馬牛以外の牛も「神戸牛」として出回るようになっていました。そこで神戸ビーフのブランドを守るため「神戸肉流通推進協議会」が兵庫県の呼びかけで発足。
神戸牛とは「兵庫県産和牛の但馬牛を「神戸肉流通推進行議会」の登録会員(生産者)が肥育して、本県内の食肉センターに出荷した未経産牛・去勢牛のうち、枝肉格付等が基準を満たすもの」という神戸牛の定義が確立されました。
現在もそのルールに合格したものだけに「菊の判」が押され、神戸肉のブロンズ像があるお店で提供されています。

MARATHON(マラソン)その他の歴史を見る

日本初のマラソン

1909年(明治42年)、湊川の埋立地から大阪の淀川西成大橋までの31.7キロを走る「マラソン大競走」が行われました。参加申し込みは408人。体格審査と鳴尾競馬場での予選を経て20人が本番に臨みました。
3月21日11時、当時の神戸市長の合図にスタート。熱戦の末、岡山県在郷軍人の金子長之助が2時間10分54秒でゴール。賞金300円と金時計、銀屏風などと、荷車2台分の副賞を獲得したそうです。
これはマラソンの祖といわれた相島勘次郎の発案で行われたものでした。相島がロンドンで見たマラソンに感激し、帰国後、新聞社とともに企画を実現したといわれています。
その後、第5回オリンピックで、金栗四三(かなぐりしそう)が日本人初のマラソン選手として出場。その後も毎回、日本人選手が出場し、多くの入賞者が生まれました。

「日本マラソン発祥の地 神戸」記念碑

現在も愛されるスポーツ

そして2011年(平成23年)、かねてよりのマラソンブームにより「第1回神戸マラソン」が開催。そのスタート地点の市役所前には「日本マラソン発祥の地 神戸」の記念碑が建てられました。
今では、神戸マラソンは2万人を超える大きな大会となり、神戸市全体で全国からのランナーをもてなす工夫もたくさん。市民や県外のランナーに愛されるマラソン大会は今も続いています。

JAZZ(ジャズ)その他の歴史を見る

日本のジャズはダンスミュージックとして始まった

井田一郎(株式会社ジャズワールド 提供)

アメリカでジャズのレコードが発売された数年後、1923年(大正12年)、神戸市内のホテルで、宝塚歌劇団のオーケストラでバイオリン奏者だった井田一郎が4人編成のジャズバンド「ラフィング・スターズ」を結成したのが日本初のプロのジャズバンド誕生といわれています。
当初のジャズはダンスミュージックと考えられており、ダンスホールで踊るための音楽でした。

本格的なジャズが広がる

時は流れて戦後、アメリカ進駐軍などの影響もあり、神戸のジャズはより本格的に。やがて三宮や元町の山手にジャズクラブが誕生します。ホテルや外国人クラブが主だったジャズの演奏が徐々に市民に広がっていくことに。現在も毎日ジャズセッションが行われているジャズクラブが北野界隈にたくさんあります。
世界には、いろいろなジャンルのジャズがありますが、神戸のジャズは「スウィング」が主流。古き良き時代のジャズを楽しむことができます。

ミュージシャンもお客さんも一緒に

ジャズクラブは決して敷居の高い場所ではありません。リズムに合わせて体をスウィングさせたり、自分の好きな曲をリクエストしたり、時にはバンドに飛び入り参加したり!?自分の心地よい聴き方が一番。
また、毎年10月には「神戸ジャズストリート」も。こちらは神戸北野坂・異人館街に点在するライブハウスや教会などめぐりながら「ジャズのはしご」を楽しむイベント。オープニングのパレードはジャズのメッカであるニューオーリンズのようだとか。ミュージシャンもお客さんも一体となって楽しむジャズはいまも神戸のまちに息づいています。

COFFEE(コーヒー)その他の歴史を見る

神戸港のコーヒー輸入

日本はコーヒー輸入量が世界第3位で年間44万5,746トン(2014年(平成26年))。そのうちの4分の1を神戸港で輸入しています。かつての神戸港は全国第1位のコーヒー輸入量を誇っていましたが、国内のコーヒー消費量が増えるにつれ、横浜での輸入量が増え、第2位のシェアとなりました。
神戸は大手コーヒーメーカーがいくつもあり、焙煎工場も多い土地。それにともなって、コーヒー豆の扱いに長けた商社や倉庫が多くあることが神戸でのコーヒー輸入を支えてきました。

一般にコーヒーが受け入れられる

そんな人気のコーヒーをホテルではなく、初めて一般向けに販売したのは、神戸の茶商「放香堂」。1878年(明治11年)12月に「焦製(しょうせい)飲料コフィー、弊店にて御飲料用或は粉にて御求共に御自由」と新聞広告を出しました。江戸時代にコーヒーを飲む習慣があったのは、長崎の出島のオランダ人だけだったのですが、開港後すぐに港町では庶民もコーヒーを楽しむようになっていたようです。

コーヒーの拡大に日本人

いまや世界中で愛される嗜好品になったコーヒー。そのきっかけを作ったのが日本人であったことをご存知でしょうか?
1899年(明治32年)、コーヒー液を真空蒸発缶に入れ、水分を蒸発させて作ったソリュブル・コーヒー(溶けるコーヒー)を考案したのが、シカゴ在住の日本人化学者の加藤サトリ。手軽にどこでも楽しめる缶コーヒーを本格的に開発したのはUCC上島コーヒーでした。

CLOTHES(洋服)その他の歴史を見る

上質な神戸洋服

1869年(明治2年)イギリスの洋服商カベルが居留地16番にテーラーを開いたのが神戸洋服のはじまり。柴田音吉は、同年、カベルの一番弟子として修業し、日本人最初のテーラーとなりました。日本人では泉小十郎氏が創業、続いて明治5年(1872年)、西田正太郎氏が開業した。足袋職人や馬具屋から転身した職人が多かったと言われています。
カベルの店で修業した柴田音吉は、1883年(明治16年)に元町3丁目で合名会社をつくり、型崩れしない上質な洋服を提供。他店の倍以上の値段がするにもかかわらず大きな評判になりました。そして明治天皇のお召し服や伊藤博文などの洋服も仕立てた一流の職人でした。
当時、政府より「礼装は洋服とする」と発令されたこともあり、洋服は急速に広まっていきました。

日本近代洋服発祥の地記念彫刻

日本近代洋服発祥の地記念彫刻

1902年(明治35年)には神戸洋服商工組合が結成、技術向上のための講習会や洋服商によっては海外の視察なども盛んに行われました。
1974年(昭和49年)、東遊園地に「日本近代洋服発祥の地記念彫刻」が神戸洋服商工業協同組合により建立。洋服の前身頃(まえみごろ=衣服の胴の部分で、その前面)と袖の型紙を模した彫刻と、衿の型紙の顕彰碑で構成されています。是非、探してみてください。

現在の神戸ファッション

日本を代表するアパレルメーカーの多くは神戸に本社があります。1972年(昭和47年)には、アパレル企業を会員として、神戸ファッションアソシエーション(KFA)が結成され、翌1973年(昭和48年)、全国に先がけて「神戸ファッション都市宣言」が行われました。それが六甲アイランドの神戸ファッションマートや神戸ファッション美術館につながります。
そして2002年(平成14年)からは「神戸コレクション」が開催され、ファッションウイークも実現。人気のファッションイベントとして定着しています。

GOLF(ゴルフ)その他の歴史を見る

六甲山とグルーム

ゴルフをする婦人(神戸ゴルフ倶楽部 提供)

右端グルーム氏(神戸ゴルフ倶楽部 提供)

神戸ゴルフ倶楽部(神戸市立博物館 提供)

六甲山の夏山開きは「グルーム祭」と呼ばれています。山上の記念碑台にたたずむA.H.グルーム像。そう、グルームとは六甲山を開山した人物なのです。
彼は、六甲山を市街地に近いリゾート地にしようと力を尽くしました。
そこに同郷の友人たちと「イギリスでプレーしていたゴルフがしたい。」という話で盛り上がり、1898年(明治31年)、実際にゴルフ場建設に着手しました。

手づくりのゴルフ場

日本人であるグルームの妻名義で12万6000坪の荒れ地を借り、たくさんの人を動員して手作業で岩や雑草を取り除き、1901年(明治34年)、なんとか4ホールのゴルフ場が完成。2年後には9ホールが完成して1903年(明治36年)に日本で初めてのゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」が誕生しました。この「神戸ゴルフ倶楽部」のキャディーを務めた人物から日本プロゴルフの草分けとなる中上数一や越道政吉などが生まれました。

現在のゴルフ

現在の日本のゴルフ人口は800万人とされていますが、開業当時のメンバーは120人。ほとんどが在留外国人で日本人の会員は7名程度でしたが、いずれも名誉会員的存在だったようです。しかし、時代が下るにつれ、少しずつ日本人ゴルファーが増えていきました。
いまも110年以上の伝統を誇る「神戸ゴルフ倶楽部」は、倶楽部のよき伝統である家族的な雰囲気のある倶楽部として、家族同士、仲間同士が、ゴルフを通じて親交の輪を広げる気取らない社交の場(同倶楽部公式ホームページ)としての空気が、今も続いているようです。

FURNITURE(神戸家具)その他の歴史を見る

船大工の技術を西洋家具へ

神戸開港の明治のはじめ、船大工の技術を持った職人が、外国人の持ち込んだ西洋家具や外国船の装備品などを見よう見まねで作ったり、道具商が不用になった家具を買い取り、修理販売するようになったのが神戸家具の始まりとされています。旧居留地や北野や山本通の外国人住居、または企業・官庁の椅子の利用などから西洋家具の需要がぐんぐん伸びていました。
最初のころはほとんどが外国人からの注文でしたが、1901年(明治34年)には参謀本部の注文で船内用の家具を納品した記録があるそうです。

(神戸市立博物館 提供)

確かな技術は海を越えて

1903年(明治36年)には、西洋家具製造業として6人が記されており(神戸商工案内)、1906年(明治39年)には、西洋家具工場として7工場があったと「神戸市統計書」に記されています。
また、その頃の神戸の家具職人の腕の良さが評価され、神戸の家具は海を越えてヨーロッパからも発注されるようになってきました。

100年続く家具

神戸家具はオーダーメイドで手作り。国産のナラ材などを使い、丈夫で飽きのこないデザイン。修理すれば100年は持つといわれ、親から子、孫の世代まで長く使えます。
阪神・淡路大震災では、多くの神戸家具が修理に出されましたが、見事によみがえり、修理を通じて神戸家具の堅牢さと、職人技術の高さが証明されたといえるでしょう。

OLIVE(オリーブ)その他の歴史を見る

日本最古のオリーブの木

湊川神社の鳥居をくぐって左手の宝物殿の前に、古いオリーブの木があることをご存知でしょうか。この木は1878年(明治11年)のパリ万博で日本館の事務館長を務めた前田正名(まえだまさな)が持ち帰ったものの1つで、湊川神社と加古川市の宝蔵寺に残るオリーブの木が日本最古のオリーブの木といわれています。

神戸オリーブ園

明治期に国家事業として、内務省が神戸市中央区山本通に、内務省三田(みた)育種場神戸支園を開園、そこでオリーブの木を育てる実験をしました。
1882年(明治15年)には農学者の福羽逸人(ふくばはやと)によって、オリーブの実を収穫しオリーブオイルの採取に成功。神戸支園は神戸オリーブ(阿利襪)園と改称し、加古郡稲美町の播州葡萄園とともに前田正名が経営することに。しかしオリーブの販売はうまくいかず、その後神戸市農会に経営が移るも神戸でのオリーブ栽培は断念せざるを得ませんでした。
その後、オリーブ栽培は、1908年(明治41年)、アメリカから苗木を輸入し、小豆島で育てられ、現在のオリーブ事業の隆盛へと繋がっていきます。

寄贈されたオリーブの木

平和の象徴

1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災。火災被害が大きかった兵庫区で隣家への延焼を食い止めたというオリーブの木があったとか。そして翌年「イタリア・オリーブの町協会」からイタリアでは平和のシンボルであるオリーブの苗木が寄贈され、三宮の東遊園地に植樹されました。
明治期の神戸のまちに、オリーブの庭木はよく見られたといわれます。いまも庭木として愛されるオリーブの木に平和の願いをこめて
神戸・北野町では「神戸オリーブ園」があったことから、オリーブを町のシンボルとして育てています。

BANANA(バナナ)その他の歴史を見る

バナナの輸入

(株式会社上組 提供)

1903年(明治36年)、日本統治下の台湾から7カゴのバナナが神戸港に到着しました。これが日本と台湾バナナ(輸入バナナ)との出会いの瞬間です。1924年(大正13年)に台湾青果株式会社が設立され、台湾から日本に輸出されるバナナは、集荷、輸送、販売を台湾青果株式会社が担当することになり、輸入が拡大していきます。
しかし長い間バナナは高価な食べ物で、お土産や病気の時にしか食べられない貴重なものでした。それが一転したのがバナナの輸入自由化です。
1963年(昭和38年)バナナ輸入自由化をきっかけにエクアドル産のバナナが輸入量1位に。その後、フィリピンで日本向けにバナナのプランテーションが作られ、いまではフィリピン産のバナナが輸入トップになっています。
バナナは、青果物を多く扱っている兵庫の第1〜第3突堤(阪神・淡路大震災後、埠頭間が埋め立てられ、兵庫埠頭となる)で陸揚げされたので、この埠頭は「バナナ埠頭」と呼ばれました。

高級からお手軽へ

高級品だったバナナが、どれだけ庶民的になったかを示す資料があります。
1964年 1キロあたり バナナ228円、りんご111円、みかん159円
2014年 1キロあたり バナナ217円、りんご513円、みかん550円
(総務省統計局(旧総理府統計局)「小売物価統計調査報告」より)
りんごとみかんの倍程度の価格だったバナナがいまはりんごとみかんの半値以下に。バナナは物価上昇に左右されず、栄養価の高い身近なフルーツへと転身していったのです。
現在も神戸港は日本一のバナナ輸入港。皆さんの食卓へおいしいバナナをお届けしています。

LEMONADE(ラムネ)その他の歴史を見る

レモネードの日本なまり

イギリスからやってきた「レモネード」。いつの間にかなまって「ラムネ」になったといいます。ラムネといえば、あの独特の瓶のかたち。ビー玉が入ってくびれた瓶もイギリスで考えられたもの。王冠で栓をするものとは違い、何度でも繰り返し使えることから、軍隊でも採用されたそうです。

(神戸市立博物館 提供)

大人気の「18番」

日本で本格的にラムネを販売し始めたのは、神戸のA.C.シムです。シムは、1870年(明治3年)来神、外国人居留地18番で薬剤師として勤務、ここでラムネを売出し、やがて事業を引き継いで、ACシム商会を設立。
ACシム商会のあった居留地の「18番」がラムネの代名詞になるほどの人気商品でした。帆前船マークのこのラムネはほかのメーカーのラムネの3倍程する高価格であったにも関わらず、品質の良さから大人気で模造品まで出回ったといいます。
1886年(明治19年)当時、日本ではコレラが流行し、社会問題に。
「瓦斯(ガス)を含有した飲料水を飲むとコレラに罹(かか)ることなし」という新聞記事が出たことから、ラムネは爆発的に売れることになりました。

思い出とともに

イギリスで考案されたビー玉入りの瓶は、その地ではもう流通していないようです。日本人にとっては、夏の縁日や子どものころの思い出とともにあるラムネ。久々にひとつポンっと音を立てて飲んでみませんか。

AQUARIUM(水族館)その他の歴史を見る

和楽園の水族館

和楽園の水族館(神戸市立博物館 提供)

神戸は近代的水族館発祥の地といわれています。1890年(明治23年)に兵庫共済株式会社が和田岬に「和楽園」という遊園地を建設。美しい日本庭園に展望台を備えた洋館を中心に魚釣り場や遊技場で人気のレジャーランドでした。
1897年(明治30年)、第二回大日本水産博覧会が神戸で開催。その時に和楽園に本格的な水族館が誕生します。当時の造船技術をいかし、水槽や配管のほか、高度な循環ろ過装置を採用。天窓から光を取り込み、幻想的な雰囲気を実現させるなど、現在の水族館に近い施設で大評判。押しかけた観客が水槽に近づけないくらいの人気だったとか。博覧会閉会の5年後、1902年(明治35年)に湊川神社の境内に再建され、「楠公さんの水族館」として改めて市民に親しまれました。

須磨水族館と須磨海浜水族園

須磨海浜水族園

その伝統の水族館の流れをくむのが神戸市立須磨海浜水族園です。
1957年(昭和32年)に神戸市交通局が市電の黒字還元と利用促進のため、須磨水族館を開館。当時はまだ全国的にも水族館は少なく、「東洋一の水族館」との呼び声も高い施設でした。そして1987年(昭和62年)に施設を更新。「水族館」は「水族園」に。アクリル樹脂などの展示技術の発展で「波の大水槽」が実現。当時、国内最大級のこの水槽に臨場感を持って体感してもらうにはどうしたらよいか、館長自らがいろいろな場所に視察に行ったといいます。

水族圏博物館へ

そして2017年(平成29年)には、現施設を拠点に須磨海岸から太平洋にかけて、「水族圏」の活動フィールドとして展開。「時代に求められる新たな要請に応え、神戸・須磨から次代の人材を育て、環境未来のメッセージを広く伝えていきます。」としています。和楽園の水族館から120年。さらに神戸の水族館は進化しています。

Movie(映画)その他の歴史を見る

映画の始まりは「のぞき見」スタイル!

キネトスコープ

活動大写真 敷島館開館風景

エジソンが発明した世界初の映写機「キネトスコープ」がはじめて日本にやってきたのは1896年(明治29年)の神戸港でした。
キネトスコープは今の映画と違い、スクリーンに映すのではなく、箱の中でフィルムが回転するのをのぞき穴から鑑賞するというスタイル。同年11月25日から29日まで、花隈の神港倶楽部で初めて一般公開されましたが、大人気で12月1日まで興行が延長されました。日本の「映画の日」が12月1日なのは、このことにちなんで決められたそうです。

映画のメッカ新開地と淀川長治

その後、映画は大衆の娯楽として大きく発展しました。明治期の新開地は繁華街として栄えていましたが、さらに映画館が立ち並び、随一の興行街に。
その新開地の映画とともに育ったのが、映画評論家・淀川長治(1909-98年(明治42〜平成7年))。丁寧な語り口でいきいきと映画を紹介する姿は、多くの人々の記憶に残っています。幼い頃から映画館をハシゴして映画漬けの毎日を送ったことが、あの人気評論家を作り上げたのでした。

海に開かれた映画の窓

神戸で灯った映画の火は「神戸100年映画祭」や「神戸フィルムオフィス」に引き継がれ、世界の名作の上映や神戸での映画撮影誘致を積極的に行っています。
そしてメリケンパークに映画発祥の地を記念した石碑があります。窓のように真ん中を四角に切り抜いて、向こうの景色がスクリーンに浮かぶ映画のようにみえるオブジェ。そしてその周りには観客に見立てた石が点在します。これらの石には淀川長治さんが選んだ、往年の映画スターの名前が刻まれています。映画がやってきた海に向けて開かれた石碑を、映画の歴史や未来を思い浮かべて眺めてみませんか。

映画発祥の地記念石碑

CAKE(洋菓子)その他の歴史を見る

高級品から庶民の味へ

チョコレート製造風景(神戸市文書館 提供)

1870年(明治3年)、外国人居留地にフランス人が西洋風のホテルを建設。そこでは外国人向けに西洋のデザートが振舞われていました。その後に元町で神戸初の洋菓子店「二宮盛神堂」が開業。しかし、これも居留地の外国人向けの高級品で、外国のお菓子はなかなか庶民の手には届かないものでした。
そして1897年(明治30年)「神戸凮月堂」がオープンし、カステラやワッフル、シュークリームなど、いままでの日本になかった食べものが一般に広く伝わることになりました。

名店の誕生は時代が作った

大正時代に起きたロシア革命で日本へ亡命してきた職人は洋菓子店を起業。コスモポリタン製菓とゴンチャロフ製菓をナッツやクリームを包んだチョコレート菓子で一躍人気に。また、神戸モロゾフ製菓(現モロゾフ)がバレンタインデーの新聞広告を出したことから、いまの冬の一大イベントができあがったのは有名な話です。
第一次世界大戦(1914〜1918年)でドイツ人捕虜であったカール・ユーハイムは日本にとどまり、横浜で菓子店「ユーハイム」を開きましたが、関東大震災で店が倒壊し、神戸三宮に移って店を再開し、作ったのがバームクーヘン。いまも神戸のおなじみの味として愛されています。
ハインリッヒ・フロインドリーブもドイツ人捕虜でしたが、日本にとどまり、神戸市中山手でパン屋を開業、ドイツパンを売り出しました。

神戸スイーツ

いまでは「神戸スイーツ」としてのブランドを確固たるものにした神戸の洋菓子は、全国のデパ地下に必ず並んでいます。
スイーツを目当てに神戸に来る観光客も多く、洋菓子は神戸の一大産業となっています。

BOWLING(ボウリング)その他の歴史を見る

社交の場のボウリング

1868年(明治元年)にドイツ人が中心となってクラブ・ユニオン(のちのクラブ・コンコルディア)が誕生し、翌年、外国人居留地の東側にあったレクリエーション・グラウンド(現在の東遊園地)の南側にクラブハウスを建設しましたが、ここにはボウリングレーンもあったといわれています。
翌年、イギリス人を中心としたインターナショナル・クラブ(のちのコウベ・クラブ)も誕生します。
インターナショナル・クラブがレクリエーション・グラウンドにあったクラブ・ユニオンの土地を買い取り、1890年(明治23年)、ここにイギリス人建築家による大きな中世風の赤レンガと白い花崗岩の2階建ての建物が建築され、まさに神戸を代表する社交クラブになりました。
洋館の中には、バーやダイニングルーム、図書室、ビリヤード室と並んで、2つのレーンのボウリング場がありました。これが神戸で初めてのボウリング場です。当時のボウリングは今のようなスポーツの感覚ではなく、お酒と楽しむ娯楽の要素が強かったようです。

ボウリング発祥の記念碑

スポーツとして大ブームに

スポーツとしてのボウリングのはじまりは戦後。1952年(昭和27年)に東京ボウリングセンターができたことで一般的なレジャーとしてのボウリングが流行しました。神戸では1956年(昭和31年)に神戸山手女子短期大学の体育館にボウリングレーンが設置、1962年(昭和37年)に西宮コマボウリングセンターがオープンしたことで、兵庫県内でも一大ブームが起きました。
現在、かつて神戸クラブがあった東遊園地には、神戸におけるボウリング発祥の記念碑が建てられています。

(※神木哲男神戸大学名誉教授監修)

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